Wednesday, October 20

明仁

明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日 - )は、日本の第125代天皇(今上天皇、在位:1989年(昭和64年)1月7日 - )。昭和天皇(第124代天皇)の第1皇子で、母は香淳皇后。御称号は継宮(つぐのみや)。お印は榮(えい:桐の別名)。勲等は大勲位。

人物

1933年(昭和8年)に東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)皇居内の産殿にて誕生。1952年(昭和27年)に18歳で成年して皇太子となり、1989年(昭和64年)に昭和天皇の崩御により天皇位を継承した[3]。この間、1959年(昭和34年)に正田美智子と婚姻し、浩宮徳仁親王(現・皇太子)、礼宮文仁親王(現・秋篠宮文仁親王)、紀宮清子内親王(現・黒田清子)の二男一女がある。
2010年10月現在、76歳である。高齢であるものの、公務、宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、天皇としての活動について非常に意欲的かつ勤勉であると伝えられることが多い。年間約1000件の書類に目を通して署名・押印し、約200回の各種行事に出席し(いずれも平成19年度)、20件近くの祭儀を執り行う。
歴代の天皇の中では明治天皇および特に昭和天皇に寄せる気持ちが強いようであるが、皇太子時代には後奈良天皇に言及したこともある。また即位十周年の会見で述べているように、戦中育ちとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦の日)の4つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もある。
かつて琉球王国を征服した島津家(越前島津家・重富島津家当主・薩摩藩国父島津久光、明治維新後玉里島津家当主として10万石、華族令において公爵、島津久光公爵家初代当主)の血を引いていることから、沖縄への思いは深く、琉歌を幾つか詠んでいる。琉歌を詠んだ天皇は史上初めてである。
1970年(昭和45年)からチェリスト・清水勝雄に師事してチェロを嗜むほか、テニスをよくする(これは皇后と知り合うきっかけにもなった。いわゆる「テニスコートの恋」である)。このほか馬術、自動車の運転にも秀でている。
科学者として
魚類学者としても知られ、ハゼの分類学的研究者である。日本魚類学会に属して自らの研究に関して、28編の論文を同学会誌に発表している。1992年(平成4年)にはScience誌に"Early cultivators of science in Japan"という題で寄稿している。また2000年(平成12年)および2008年(平成20年)には、日本国外の雑誌『Gene』に第一著者として論文が掲載されている。
魚類学における業績は各国で評価されている。
1980年(昭和55年)、ロンドン・リンネ協会外国会員。1986年(昭和61年)、同協会名誉会員。
オーストラリア博物館リサーチ・アソシエート。
ロンドン動物学会名誉会員。
アルゼンチン自然科学研究所永久名誉会員。
この他にも1998年(平成10年)にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年(平成19年)の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、1992年(平成4年)には Platygobiopsis akihito と[9]、2005年(平成17年)には Exyrias akihito と、彼の名を織り込んだ献名がなされた。
略歴

幼少時代


1934年(昭和9年)、母・香淳皇后に抱かれる明仁親王


1949年(昭和24年)、ヴァイニング夫人と
1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。昭和天皇・香淳皇后の第5子にして初の皇子誕生とあって、国民的な祝福を受ける。称号の「継宮」、名前の「明仁」は、昭和天皇による命名で、いずれも明治3年1月3日(1870年2月3日)の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅「…立極垂統、列皇相承、継之述之…宣明治教以宣揚惟神之大道也…」に出典を求め、命名されたものである。
1936年(昭和11年)3月29日、満2歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。当初日曜日には宮中に帰っていたが、1カ月を過ぎる頃から日曜も東宮仮御所で過ごすようになった。慣例に従い、女児に近い格好で育てられていたが、学習院初等科入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間塞ぎ込んだ。その後、「これからは、黙ってこんなことはしないでね」と精一杯の抗議をした。学習院時代は山梨勝之進校長のもとで教育を受け、内舎人信国鉄蔵を師として剣道を練成した。
1944年(昭和19年)、戦火の拡大により、初めは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で終戦を迎えた。終戦後帰京。なお、皇太子は、皇族身位令の規定に基づき、満10歳に達した後に陸海軍少尉に任官、近衛師団に入隊することとされており、軍部からもその旨要請があったが、昭和天皇の意向で任官していないため、軍歴はない。
1946年(昭和21年)10月から1950年(昭和25年)12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている。en:Elizabeth_Gray_Vining)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。ヴァイニングを介して、ダグラス・マッカーサーとも会っている。彼女がやってきたとき、英語名(ジミーと伝わる)をつけられるのを拒否した。このほか学習院初等科時代に、色黒だったことから蚊取り線香の素焼きの香炉を想起させたため「チャブ」と学友たちによってつけられた愛称が伝わる。
皇太子時代


1952年(昭和27年)、立太子後、市民の歓呼に応える


1955年(昭和30年)11月、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世と


結婚の儀に際し
1952年(昭和27年)11月10日、皇居・表北ノ間で立太子の礼と皇太子成年式が挙行された。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。また、立太子の礼に際しては、都道府県などがこれを祝う言葉を記したアドバルーンを都内上空に浮かべ、立太子を祝った。
1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ・カナダを歴訪。同年6月2日、イギリス・エリザベス2世の戴冠式へ昭和天皇の名代として参列。このとき地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行なった。後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行なっている。しかしこの外遊の結果、学習院大学の単位が不足し進級できず、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続ける。
外遊からの帰国直後、同年12月に、結核の感染を診断される。このとき、ストレプトマイシンなどの特効薬が発見されており、それの投与による治療を行い、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした。
1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子と出会う。テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した彼女の写真を出品した。しかし彼女が資産家の令嬢とはいえ皇族・華族出身ではないためお妃候補としてマークされることはなかった。徐々に皇太子が積極的に美智子との結婚を考えていると判ると、皇室内外から猛反対を受けた。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の著作『入江相政日記』には、「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃とともに昭和天皇に訴えたという内容の記述がある。常磐会(学習院女子部の同窓会)会長松平信子ら旧華族の女性たちの反発も強く、信子に対しては昭和天皇自ら了承を求めてようやく決着したとも言われる。最終的に1958年(昭和33年)11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決された。
1959年(昭和34年)1月14日に納采の儀が、同年4月10日に結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の民間出身の皇太子妃であり、また結婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が興る。成婚のパレードは盛大に行なわれ、国民の心からの祝福を受けた。2人の成婚の様子を見るために、当時高価であったテレビも普及し始めた。また婚礼を祝して「祝典行進曲」が作曲された。同年7月15日に、美智子妃の懐妊が発表された。
1960年(昭和35年)2月23日に第1皇子浩宮徳仁親王が誕生。ミッチー・ブームがまだ冷めやらぬ成婚翌年のお世継ぎ誕生は、国民から盛大に祝福された。3月には妹・清宮貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。同年9月22日から同年10月7日にかけて、美智子妃を伴ってアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。
1963年(昭和38年)には、美智子妃が第二子を流産した後、静養。育児以外にも、時代の風潮(1960年代は、デモ・学生運動など左翼の全盛期であった)などもあり、妃ともども苦労が多かった。「浩宮の代で最後になるのか」との明仁親王の発言があったと言われる。
1965年(昭和40年)11月30日、第2皇子礼宮文仁親王が誕生。父・昭和天皇同様、タイ王国を始めとする東南アジア、及び動植物の宝庫であるマダガスカルとの縁が深く、成婚の折にはタイのシリントーン王女が式に参列した。
1969年(昭和44年)4月18日、第1皇女紀宮清子内親王が誕生。清子内親王は長く内廷皇族として天皇および皇后の傍らにあって、良き相談相手であった。
沖縄訪問に際して


1987年(昭和62年)、レーガン米大統領夫妻とヨーヨー・マのチェロ演奏を聴く
1975年(昭和50年)、沖縄国際海洋博覧会に際し、父も皇太子時代に訪問した沖縄県を立太子後、初めて訪問。海洋博の写真を収めた書籍「海 その望ましい未来」、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に参列した皇太子および同妃の姿が収録され、現在でも図書館などで目にすることができる。後者は現在DVDが発売されている(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントより、定価5250円)。開会式で宣言を読み上げる姿はテレビ中継もされ(7月19日、NHK総合テレビ)、後年ドキュメンタリー番組にもそのまま使用された(「映像でつづる復帰30周年」)。
この訪沖についてはいくつかの事件もあった。同年7月17日、美智子妃を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー)から火炎瓶1本を投げつけられる(ひめゆりの塔事件。火炎瓶を投じる直前の写真が読売新聞に掲載され、ニュースフィルムに火炎瓶を投げつけられ避難する皇太子と同妃、関係者の映像が残っている。火はすぐバケツからの放水で消火された。知念らは2本目も準備していたが、投擲する前に皇太子および同妃は射程距離外まで避難し、安全を確認した警察官が壕に飛び込み、知念らを引きずり出して逮捕した)。同日夜、皇太子は「沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ」と県民の心情を思う異例の談話を発表している。
なお、この訪問については同事件の犯人の所属するもの以外にも、各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会、県学連、全学連などが1000人単位のデモなどを行ったほか、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)を行ったが[15]、皇太子および同妃にけがなどはなく、つつがなく予定を終了した。1976年(昭和51年)1月18日の閉会式にも揃って訪沖している。
1987年(昭和62年)にも、沖縄海邦国体を前に病臥した昭和天皇の名代として沖縄を訪れ、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇の言葉を代読した。
当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う」と談話を発表した。
その後も沖縄の関係は薄まることはなく、即位後にも沖縄訪問が行われることとなった。
なお、この1987年(昭和62年)の訪沖は、同年秋に昭和天皇が病臥するまでは天皇の訪沖が予定されていたこともあって、前年から政府は特別予算を組んで南部戦跡の戦死者遺骨収骨作業を行うなど環境の整備に努め、西銘知事が「陛下をお迎えして沖縄の戦後を終わらせたい」と宣言するなど、国、県を挙げての準備が行われていた。警備面でもひめゆりの塔事件を教訓として、本土から多数の警官が応援のため増派、厳戒態勢が取られたが、無事に予定は終了した。
即位以降


2005年(平成17年)11月22日、ロシア大統領ウラジーミル・プーチン(右)と


2007年(平成19年)、アメリカ合衆国副大統領ディック・チェイニー(左)と
1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇の崩御を受け、皇位継承の儀式が執り行われ、歴代2位の年長となる55歳で即位(践祚)。翌8日、元号は平成に改元された。即位後朝見の儀では「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」と述べた。
1990年(平成2年)の即位の礼に際して、京都御所から皇居へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行なわれ、同年11月12日に即位礼正殿の儀が行われた。大正天皇・昭和天皇とも即位の礼を京都御所で行っており、関東の地で即位した初めての天皇となる。同日、即位の礼祝賀御列の儀としてオープンカーでのパレードが行われ、皇居から赤坂御所までの4.7kmの道のりを、約12万人の市民が祝福した。
1992年(平成4年)宮沢内閣官房長官加藤紘一主導で企てられた中華人民共和国へ訪問(天安門事件により国際社会での信用失墜した中共政府の信用回復に日本の皇室や天皇の権威が利用される形となった。自由国民会議初代代表黛敏郎を中心にご訪中阻止の国民運動が展開された)
即位以来、日本国憲法の精神を守りつつ平成の天皇のあり方を模索している。イラクに派遣された自衛隊を皇后とともに接見した。PKOで派遣された自衛隊員、災害救助にあたった自衛隊員に対する接見はすでに行なっていたが、これは異例のことであり、戦後昭和の頃には考えられなかったと言われている。また、政財界や学識者からの内奏・進講を、父昭和天皇以上に受けている。「(憲法第4条すれすれの)ストライクゾーンに精一杯(ボール)を投げ込んでいる」(岩井克己・文藝春秋)とも評される。また昭和天皇が敗戦で喪ったものを慰霊の旅を通して、昭和の負の遺産に向き合うことによって抱え込んでおり、その精励ぶりは歴代天皇には見られないものである。
1999年(平成11年)に即位10周年を迎え、同年11月20日に御即位十年をお祝いする国民祭典が開催され、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。
即位以来現在に至るまで、旺盛に日本国内外の訪問を行っている。1993年(平成5年)には、昭和天皇の悲願であった沖縄訪問を果たした。この折には予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑にも訪れ、このことは2007年(平成19年)になってワイドショーで紹介された。2003年(平成15年)までに、47都道府県のすべてを訪問している。
2009年(平成21年)11月12日、政府主催の御在位二十年記念式典・民間主催の御即位二十年をお祝いする国民祭典が執り行われた。
2009年(平成21年)12月15日、特例で習近平中華人民共和国副主席と会見することとなり、会見を巡る騒動で、宮内庁長官が記者会見で政府・民主党・鳩山由紀夫内閣を批判する発言を行った(天皇特例会見)。

病との闘い


2009年(平成21年)7月、ハワイ州ホノルル市に

て退役海兵隊大佐ジェネ・カスタネッティと
2002年(平成14年)12月、人間ドックに入った際に前立腺癌が発見された。その後、天皇の意向を受け、宮内庁が病名を公式発表した。翌年1月18日に、前立腺の全摘出手術を行なったが、この前立腺癌手術に当たっては万全を期すため、皇族が受診する宮内庁病院ではなく、東京大学医学部附属病院に入院して行なわれた。
1995年(平成7年)、大腸のポリープを摘出。
2008年(平成20年)2月25日、宮内庁は、「天皇陛下は定期健診において今のところ前立腺癌の再発や他臓器への転移は見られないものの、ホルモン療法の副作用で骨密度が低下しており、このままでは骨粗鬆症に移行する恐れがある」と発表し、公務及び宮中祭祀を軽減する等、生活全般についての検討を始めた。
同年12月9日の宮内庁記者会見に於いては、天皇が12月上旬に上室性不整脈に罹患し、また、消化器官検査で胃と十二指腸に炎症が発見されたことなどが発表された。原因は心身のストレスであり、宮内庁は「将来にわたる皇統の問題を始め、皇室にかかわるもろもろの問題を憂慮されている」と述べ、ストレスの中心に皇位継承問題があるとの考えを示した。
天皇自身が、公務等の見直しは在位20周年となる2009年(平成21年)以降からと希望していたため、2009年(平成21年)1月29日に宮内庁より軽減策が発表された。




(ソース:ウィキペディア)

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