皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう、1960年2月23日 - )は、日本の皇族。今上天皇と皇后美智子の第一皇子。御称号は浩宮(ひろのみや)。身位は皇太子、親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は梓(あずさ)。勲等は大勲位。学位は人文科学修士(学習院大学・1988年)。その他、名誉学位・称号として名誉法学博士(ケンブリッジ大学)などがある。皇位継承順位第1位。
住まいは東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内にある東宮御所。,
人物,
1989年(昭和64年 / 平成元年)に昭和天皇の崩御による父・明仁親王の即位に伴い実質的な皇太子となり、1991年(平成3年)に立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、国会・政府の用いる正式表記では皇太子を冠し「皇太子徳仁親王」とされる。
1993年(平成5年)に小和田雅子と結婚の儀を挙げ、2001年(平成13年)に長女・敬宮愛子内親王をもうけた。
2005年(平成17年)に愛知県で開催された日本国際博覧会(愛知万博、通称「愛・地球博」)では、名誉総裁を務めた。
男性皇族としては珍しく、歴史学(主に交通・流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏・登山・ジョギングを趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している。,
略歴,
皇孫時代,
徳仁親王は、1960年(昭和35年)2月23日、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一子として、東京都千代田区の宮内庁病院で誕生した。
懐妊に際しては母子手帳が発行され、皇居宮殿内の御産殿で出産を行わないなど、それまでの皇室の慣例によらない、戦後初の内廷皇族の親王誕生は、広く国民に注目された。同年2月29日に命名の儀が執り行われ、祖父の昭和天皇により浩宮徳仁(ひろのみや なるひと)と命名された。「浩宮」の称号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「浩々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天徳に達する者」を典拠とする。
皇太子夫妻による子育ても、国民の関心の的となった。中でも、生後7ヶ月の徳仁親王から離れて夫妻が14日間の公務訪米旅行の際に、皇太子妃が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて働く母親たちの子育て指針としても共感を呼んだ。
夫妻は、専任の養育係を置かず、子育てを行った。両親の元で、弟・礼宮文仁親王、妹・紀宮清子内親王とともに育つ徳仁親王たちの様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近い戦後の幸せな家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。
徳仁親王は、幼稚園から大学まで学習院で学んだ。学習院大学では音楽部に所属しヴィオラを担当した。在学中の1980年(昭和55年)2月23日、満20歳で成年式を執り行なった。
1982年(昭和57年)3月に学習院大学文学部史学科を卒業した(文学士)。その後、同大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進学。それまでの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学、中世の交通・流通史という人文科学・社会科学に近い分野を専攻した。
1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、オックスフォード大学マートン・カレッジに留学して、テムズ川の水運史について研究。1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程を修了した(人文科学修士)。この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には、昭和天皇の病気療養と皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めて国事行為臨時代行に就いた。
昭和時代の末より、親王妃候補について様々な憶測が報道されるようになり、1986年(昭和61年)10月18日、来日中のスペイン王女の歓迎パーティーに出席した際、外務省に勤める小和田雅子と知り合う(後述→#結婚までの経緯)。,
皇太子時代,
皇太子旗,
2008年(平成20年)6月18日、ブラジル訪問時
1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇の崩御により、皇太子明仁親王が天皇に即位した。これに伴い、皇位継承順位が1位となり、徳仁親王は事実上の皇太子となった。また、それまで家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。
今上天皇の即位の礼などを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日に立太子の礼が執り行われ、徳仁親王が皇太子であることが正式に宣明された。また同日、皇太子の印とされる「壺切御剣」を今上天皇から親授された。
1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において婚姻の相手に小和田雅子を内定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。
8年後の2001年(平成13年)12月1日、雅子妃との間に長女・敬宮愛子内親王が誕生した。
皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、ケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。
2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる人格否定発言)。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に雅子妃が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。
2007年(平成19年)3月27日、定期健康診断で十二指腸にポリープが発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープの内視鏡による切除手術を東京都文京区の東京大学医学部附属病院で受けた。同年11月1日、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である。,
年譜,
1960年(昭和35年)2月23日 - 宮内庁病院にて誕生
1964年(昭和39年)10月29日(4歳) - 着袴の儀
1980年(昭和55年)2月23日(20歳) - 成年式(皇居宮殿・春秋の間)
1982年(昭和57年)3月(22歳) - 学習院大学文学部史学科を卒業(文学士)
同年4月 - 学習院大学大学院に入学。専攻は史学・中世の交通・流通史。
1988年(昭和63年) - 学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程を修了(人文科学修士)
1991年(平成3年)2月23日(31歳) - 立太子の礼(皇居宮殿・松の間)。壺切御剣親授(皇居宮殿・表御座所・鳳凰の間)。
1993年(平成5年)1月19日(32歳) - 皇室会議にて、妃に小和田雅子が内定。
同年4月12日 - 納采の儀(小和田邸)
同年6月9日 - 結婚の儀(宮中三殿・賢所)
2001年(平成13年)12月1日(41歳) - 第一女子・敬宮愛子内親王が誕生。,
外遊歴,
昭和時代,
1982年(昭和57年)
10月3日 - 10月18日: ブラジル訪問
1986年(昭和61年)
7月20日 - 7月27日: イギリス訪問
アンドルー王子の結婚式に参列のため
1987年(昭和62年)
3月10日 - 3月25日: ネパール・ ブータン訪問
11月6日 - 11月3日:西ドイツ訪問
平成時代
1989年(平成元年)
9月23日 - 10月1日: ベルギー訪問。フランス立寄り。
徳仁親王へのベルギーからの同国で開催される「ユーロパリア日本祭」招待による。開会式臨席。
1990年(平成2年)
8月17日 - 8月27日: ベルギー旅行。ルクセンブルク・アメリカ合衆国立寄り。
同国で開催される第10回国際経済史学会に出席のため。
1991年(平成3年)
1月28日 - 2月1日: ノルウェー旅行。フランス立寄り。
同年1月17日に崩御した同国国王オーラヴ5世の葬儀参列のため。
9月11日 - 9月24日: モロッコ・ イギリス訪問。
徳仁親王へのモロッコからの同国訪問の招待、並びにイギリスからの同国で開催される「ジャパンフェスティバル1991」への招待による。開会式臨席。
1992年(平成4年)
7月18日 - 8月4日: スペイン・ ベネズエラ・ メキシコ訪問。アメリカ合衆国立寄り。
徳仁親王へのスペインからの同国で開催されるセビリア万国博覧会並びにバルセロナオリンピック招待、並びにベネズエラ、メキシコ両国からの両国訪問への招待による。バルセロナオリンピック開会式臨席。
1994年(平成6年)
11月5日 - 11月15日: サウジアラビア・ オマーン・ カタール・ バーレーン歴訪。タイ立寄り。
雅子妃同行。
1995年(平成7年)
1月20日 - 1月28日: クウェート・ アラブ首長国連邦・ ヨルダン歴訪。シンガポール立寄り。
雅子妃同行。
1999年(平成11年)
2月8日 - 2月9日: ヨルダン訪問。
雅子妃同行。同年2月7日に崩御した同国国王フセイン1世の葬儀参列のため。
12月3日 - 12月7日: ベルギー訪問。
雅子妃同行。皇太子および同妃へのベルギーからの同国フィリップ王子の結婚式への招待による。
2001年(平成13年)
5月18日 - 5月25日: ブルガリア訪問。アメリカ合衆国立寄り。
徳仁親王へのイギリスからの同国で開催される「JAPAN2001」への招待による。オープニング開幕行事臨席。
2002年(平成14年)
1月30日 - 2月4日: オランダ訪問。
徳仁親王へのオランダからの同国ヴィレム=アレクサンダー王太子の結婚式への招待による。
12月11日 - 12月19日: ニュージーランド・ オーストラリア訪問。
雅子妃同行。皇太子および同妃へのニュージーランド、オーストラリア両国からの両国訪問への招待による。
2004年(平成16年)
5月12日 - 5月24日: デンマーク・ ポルトガル・ スペイン訪問。
徳仁親王へのデンマーク女王マルグレーテ2世夫妻からの同国フレデリク王太子の結婚式への招待、並びにスペイン国王フアン・カルロス1世夫妻からの同国フェリペ王太子の結婚式への招待、ポルトガル国大統領からの同国訪問の招待による。
9月8日 - 9月11日: ブルネイ訪問。
徳仁親王へのブルネイ国王ハサナル・ボルキアからの、同国ビラ王太子の結婚式への招待による。
2005年(平成17年)
8月3日 - 8月4日: サウジアラビア旅行。
同年8月1日に崩御したサウジアラビア国王ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズの弔問のため。
2006年(平成18年)
3月15日 - 3月21日: メキシコ訪問、帰路カナダ立寄り。
徳仁親王へのメキシコからの同国で開催される「第4回世界水フォーラム」への招待による。全体会合にて基調講演。
8月17日 - 8月31日: オランダ旅行。
雅子妃、愛子内親王同行。皇太子一家への同国女王ベアトリクスからの招待による。静養のため滞在。
9月18日 - 9月20日: トンガ旅行。帰路ニュージーランド立寄り。
同年9月10日に崩御したトンガ国王タウファアハウ・ツポウ4世の葬儀参列のため。
2007年(平成19年)
7月10日 - 7月17日: モンゴル訪問。
モンゴル国からの招待による。当初雅子妃も同行する予定であったが、単独の訪問となった。
2008年(平成20年)
2008年6月18日、ブラジル:ルラ大統領と
2010年6月19日、スウェーデン:ヴィクトリア王女の結婚式にて
6月16日 - 6月27日: ブラジル訪問。帰路アメリカ立寄り。
日本人ブラジル移住100周年を記念して、ブラジル政府からの招待による。
7月16日 - 7月23日: スペイン訪問。
2008年サラゴサ国際博覧会の開催において、スペイン政府からの招待による。
7月30日 - 8月3日: トンガ訪問。帰路オーストラリア立寄り。
トンガ国王ジョージ・ツポウ5世の戴冠式に参列のため。
2009年(平成21年)
2月10日 - 2月15日: ベトナム訪問。
外交関係樹立35周年に伴い、ベトナム政府からの招待による。
3月14日 - 3月20日: トルコ旅行。往路ドイツ立寄り
第5回世界水フォーラムに出席のため
2010年(平成22年)
3月6日 - 3月15日: ガーナ・ ケニア訪問。往路イギリス、復路イタリアに立寄り。
ガーナ大統領およびケニア政府からの招待による。
6月17日 - 6月21日: スウェーデン
同国王太子:ヴィクトリア王女結婚式に出席のため。
子女
雅子妃との間には1子がいる。
敬宮愛子内親王(としのみや あいこ:2001年(平成13年) - )
系譜
徳仁親王 父:
今上天皇 祖父:
昭和天皇 曾祖父:
大正天皇
曾祖母:
貞明皇后
祖母:
香淳皇后 曾祖父:
邦彦王(久邇宮)
曾祖母:
俔子
母:
美智子 祖父:
正田英三郎 曾祖父:
正田貞一郎
曾祖母:
正田きぬ
祖母:
正田富美子 曾祖父:
副島網雄
曾祖母:
副島アヤ
発言
「美しいものを見たときに、それを美しいと評価できる人」
「これからはある程度の外国語が話せたほうが良い」
「ニューヨークのティファニーに行ってあれやこれや買うような方では困る」
以上、1985年(昭和60年)、留学先のイギリスから帰国後の記者会見で、「どのような方を妃として望むか」という質問に対して。
「心から祝福いたします。川嶋紀子さんは以前からよく遊びに来ており、妹のような気持ちで接しておりました(中略)弟と紀子さんとは非常によく合うと思います」
「川嶋家に色々問い合わせが来て、二人の間が不安定になっているのはよくないということもありました。二人の結婚は私も強く勧めたところです。私についてはマイペースでやっていきたいと考えております」
以上、1989年(平成元年)9月21日、記者会見にて、文仁親王の婚約についての質問に対して。
「立太子宣明の儀が行われ、誠に身の引きしまる思いであります。皇太子としての責務の重大さを思い、力を尽くしてその務めを果たしてまいります」
1991年(平成3年)2月23日、立太子の礼にて
「皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」
1992年(平成4年)11月後半に交際中の雅子にかけた言葉、婚約内定の記者会見にて雅子妃が披露した。
「外交官としての雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」2004年(平成16年)、訪欧前の記者会見で。いわゆる人格否定発言。
「皇室典範に関する有識者会議が最終報告書を提出したこと、そしてその内容については、私も承知しています。親としていろいろと考えることもありますが、それ以上の発言は控えたいと思います」
2006年(平成18年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、皇室典範改正問題についての質問に対して。
「昨年9月の悠仁親王の誕生を心から喜ばしく思います。御所で、また、秋篠宮邸で、そしてまた、この赤坂御用地を弟夫妻が散歩で連れている折などに会うことがありますけれども、健やかに成長しているようで嬉しく思っております」
2007年(平成19年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、悠仁親王誕生についての質問に対して。
「すべての公務は「天皇陛下をお助けしつつ、国民の幸福を願い、国民と苦楽を共にしていく」という皇室のあるべき姿が基礎にあります(中略)陛下のご年齢を考えますと、陛下のお仕事の全体の量をよく把握しながら、ご公務の調整をしていくことは大切なことと思います(中略)この辺のことは、周囲が、陛下とよくご相談しつつ、陛下のお気持ちに沿う形で事を進めていくことが大切と考えます」
2008年(平成20年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、天皇の多忙な公務日程の見直しについての質問に対して。,
逸話,
人物に関するもの,
趣味はスポーツと音楽を中心に幅広く、特に日本各地の登山とヴィオラの演奏はしばしば国民の目をひく。登山に関しては、登山専門誌『岳人』や『山と渓谷』などに、幾度かエッセイも寄稿している。このエッセイでは、父と山に登ったときの思い出なども書かれ、文中では一般の敬語の原則に従い、天皇を「父」、皇后を「母」と呼んだ。登山のほかにはテニスとジョギングを好む。普段は赤坂御用地内を走っているが、皇居を周回するジョギングコースで市民ランナーとともに走ったことが過去に3回ある。2007年は約10km(2周)を51分前後で走破し、その健脚ぶりを披露している。
ヴィオラは、友人知人や演奏家を招いた際などに私邸で演奏するほか、学習院OB演奏会のオーケストラなどで演奏することもある。元来ヴァイオリンを弾いていたが、学習院大学入学を機にヴィオラに転じた。
皇太子になる前には、歌手の柏原芳恵のコンサートに赴いたこともある。1986年(昭和61年)10月19日、ファンであった歌手柏原芳恵の新宿東京厚生年金会館でのコンサートに行き話題となる。出迎えた柏原芳恵がレコードと写真集をプレゼント。そのお礼に彼女にオレンジ色のバラを贈っている。(父皇太子明仁親王邸である)東宮御所に咲く(エリザベス女王が皇太子妃美智子に送ったバラ)「プリンセス・ミチコ」であった。
小学生の頃は読売ジャイアンツのファンで、そのユニフォームを着て野球に興じる姿を映した映像も残っている。プロ野球の末次利光選手を贔屓にしていたという。しかし、解説者に尋ねられた際には末次の名を失念し、「38番のひと」と背番号で答えた。1988年(昭和63年)の夏の甲子園第70回全国高等学校野球選手権大会では開会式後の始球式を務めた[9]この大会については良い思い出として記憶していると語っていたことが雑誌記事に掲載され、21年後の2009年夏の甲子園には開会式に出席し、お言葉を読み上げた。
1970年(昭和45年)8月5日、大阪万博の三菱未来館を見学中「シェー」のポーズを取り、関係者を驚かせたこともある。しかし、歳に似合わぬ老成した言動から、学生時代のあだ名は「爺」であった。
阪神淡路大震災に際しては被災者を見舞い、「春になればいいことがありますよ」と言葉をかけたと伝わる。地震の発生メカニズムについても興味を示し、地震研究所を訪問したと伝わる。この直前にはクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンを外遊中であり、外遊を継続する予定であったが、外遊先ヨルダンのフセイン国王の勧めで急遽予定を切り上げ帰国した。ハーシミーヤ宮殿で会見し「訪問の約束は果たさなければと思っていましたが、はざまで難しかった」と語っている。
2009年11月には学習院において中国人民解放軍総政治部歌舞団の中国歌劇「木蘭詩篇」公演を観劇し観劇後、関係者と握手し色紙を贈られた。時期が今上天皇在位二十周年記念式典と近く、また私的な観劇であったことから報道は差し控えられた。この劇団には人民解放軍少将の階級を持つ習近平の夫人彭麗媛が在籍、公演にも参加していた
皇族とのもの
高円宮家とは家族ぐるみで親しく交際していた。高円宮夫妻は雅子妃と結婚の実現に協力し、子が生まれぬ間には夫妻の支えとなった。また、高円宮憲仁親王の影響からかサッカー関連のエピソードもあり、2002年(平成14年)開催の日韓ワールドカップに際しては私邸と思われる一室にて日本代表のユニフォームを着用し娘・愛子内親王を抱いた写真が撮影されている。
また、同年の高円宮の逝去の約1週間前に、徳仁親王一家が高円宮邸を訪問したおり、ラフな格好で撮影された皇太子一家と久子妃・典子女王・絢子女王の写真も残っており、両家の親密さがうかがえる。
2006年(平成18年)9月6日、秋篠宮妃紀子が愛育病院で悠仁親王を出産した際は、秋篠宮からの電話連絡を受け、「ご無事のご出産おめでとう。妃殿下の手術が無事に終わることを祈っています。両殿下も親王殿下もお身体をお大切に」と祝意を述べた。北海道で公務中だった天皇・皇后の帰京(9日)と見舞い(10日)の後、自らは11日に雅子妃・愛子内親王を伴って見舞いに訪れた。
徳仁親王は2007年(平成19年)の誕生日会見で、「(愛子内親王が)両陛下とお会いする機会を作っていきたい」と表明したが、翌2008年(平成20年)2月13日の定例会見で羽毛田信吾宮内庁長官に明仁と皇后美智子への参内(訪問)の回数が増えていないことを指摘された[2]。その直後の誕生日会見では羽毛田長官の発言に対し、参内を心がけたいとして、それ以上の内容は“プライベートな事柄”とし発言を控えた。
雅子妃の親族とのもの
雅子妃の実家である小和田家、雅子妃の母・優美子の実家である江頭家との関係は、良好である。雅子妃の祖母に当たる江頭寿々子が病床にあったときは、愛子内親王を伴って見舞いに訪れており、2006年(平成18年)に雅子妃の祖父・江頭豊が死去した際には雅子妃に同行、葬儀に参列している。,
結婚までの経緯,
成婚を記念して発行された記念貨幣,
1986年(昭和61年)10月18日、東宮御所で催されたスペイン国王フアン・カルロス1世の娘エレナ王女歓迎の茶会に、外務省条約局長だった小和田恆とともに招かれた、恆の長女で外務公務員I種試験に合格して間もない小和田雅子と初対面を果たす。この茶会では言葉はわずかしか交わさなかったが、雅子に好感を持ったとされる。
1987年(昭和62年)4月25日には、高円宮憲仁親王・久子妃夫妻が高円宮邸に徳仁親王と小和田雅子を招き、親交を深めるきっかけを作った。
こうした経緯から、小和田雅子は親王妃候補から外れた。しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり[12]、他の妃候補が次々と辞退したこともあって昭和天皇崩御後に再び親王妃候補となった。また、当時の水俣市長は、「この問題がご成婚の妨げになるとすれば、お気の毒であり心苦しい、雅子さんとは直接関係のないことです。ご成婚された暁には、ぜひお2人で本市を訪問して頂きたい、歓迎致します」と発言してい。富田朝彦は後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの藤森昭一長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている。
また、今上天皇と皇后は「皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい」との意向を宮内庁に伝えたとされる。小和田雅子が英国留学から帰国した後に、藤森昭一宮内庁長官の依頼を受けた元外務次官柳谷謙介が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。同年10月3日に宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も温かくお迎えするとおっしゃって下さっている」旨を伝えた。そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を今上天皇と皇后に紹介し歓談した。
翌1993年(平成5年)1月6日午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。同年1月19日、皇室会議において徳仁親王と小和田雅子の婚姻が全員一致で可決され、同日二人による記者会見が行われた。翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。
同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHKが中継した結婚の儀の平均視聴率は30.6%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録するなど、盛大な祝福を受け。また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されて休日となった。また各地で神輿・山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げ、国営公園の無料開放などが行われた。
(ソース:ウィキペディア)
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