敬宮 愛子内親王(としのみや あいこないしんのう、2001年12月1日 - )は、日本の皇族。皇太子徳仁親王と同妃雅子の第一女子。今上天皇の孫にあたる。御称号は敬宮。身位は内親王。皇室典範における敬称は殿下。お印はゴヨウツツジ(五葉つつじ)。,
略歴,
平成13年(2001年)12月1日、宮内庁病院で出生。12月7日、敬宮愛子と命名された。出典は『孟子』離婁章句下の「仁者は人を愛し、礼ある者は人を敬ふ。人を愛する者は人恒に之を愛し、人を敬ふ者は人恒に之を敬ふ」に拠る。皇太子と皇太子妃、そして学者が相談して決定し、今上天皇も皇太子および皇太子妃の意向を尊重した。両親からは「愛ちゃん」と呼ばれている。
平成18年(2006年)4月11日、学習院幼稚園に入園。平成20年(2008年)3月、学習院幼稚園を卒園、同年4月より学習院初等科へ入学した。
平成22年(2010年)2月下旬から風邪のため欠席しがちだったが、3月5日になって東宮大夫:野村一成が3月上旬に発生した初等科での児童同士のトラブルから体調不良となり、学校を欠席したと発表し、大きな波紋を呼んだ(詳細は愛子内親王不登校騒動)。,
逸話,
趣味の一つは大相撲の観戦。力士の四股名だけでなく下の名前も覚えており、父徳仁親王が「とてもかなわない」と感想を述べている。平成18年(2006年)9月10日、両国国技館にて両親と共に秋場所を観戦し、「夢じゃなかったのかしら」との感想を述べたという。
また平成21年(2009年)のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)を契機に、野球にも興味を持つようになっており、選手では内川聖一がお気に入りという。
2010年には、初等科からの帰宅の際、警察官が目を離している所を一人で走って出て行ってしまったというエピソードもある。,
内親王をめぐって,
待望久しかった皇太子の第1子であったことから、誕生と同時に注目を集めた。しかし、その後メディアに露出することを控えたため、発達の遅れがあるのではないか等といった噂・憶測が、平成16年(2004年)頃に海外メディアを中心に流れ、国内の週刊誌でも話題となった。この状況を受け、同年6月の定例会見にて林田英樹東宮大夫(当時)はただちに「事実無根で不本意」と否定。宮内庁は同年9月にスナップ写真や徳仁親王が東宮御所内で撮影したビデオを公開し、事態の収束につとめた。ビデオの中には皇太子を「パパ」と呼びながら絵本を読む姿などが映されていた。
昭和40年(1965年)の秋篠宮文仁親王誕生以降、長く皇室に男子が誕生しなかったため皇室典範見直しの機運が高まり、皇太子に女子が誕生したこともまたこれを後押しした。そのため、2005年から2006年にかけて、「皇室典範に関する有識者会議」において愛子内親王の将来の天皇即位を念頭においた女性・女系天皇の可能性が検討された(皇位継承問題)。その後、平成18年(2006年)9月6日、秋篠宮妃紀子が皇室で41年ぶりの男子悠仁親王を出産したことで、有識者会議は一時棚上げとなった。
また、従来マスコミ報道において御称号を有する皇族は「称号(+敬称)」(例:徳仁親王=浩宮さま)とされていたのに対し、愛子内親王について「敬宮」が省かれる傾向がある[15]。そもそも父・徳仁親王が誕生後の会見以来「愛子」と呼んでおり、今上天皇・皇后は「敬宮」としていた[17]が平成18年(2006年)以降は同様に「愛子」と呼んでいる。このため、やがてマスコミからも同様にされることが多くなり、現在では称号を省いた「愛子さま」という呼称が国民の間にも広く定着している。なお、愛子内親王自身の学校生活においては「敬宮愛子」の名が用いられているという。
(ソース:ウィキペディア)
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